ごあいさつ

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大谷学園 学園長 左藤 恵大谷学園 学園長
左藤 恵

校祖の理念を引き継ぎ、私たちは着実に歩み続けています。

明治42(1909)年、まだ女性は正式な大学に入学できなかった時代に、幼子を育むのは女性であり、女性を育むことこそが未来を作るとして、校祖左藤了秀は女子教育の重要性を説き、阿倍野に大谷学園を立ち上げました。私の祖父でもある了秀は、初等教育から高等教育までの女子教育機関の設立を願い、奔走していましたが、第二次世界大戦の混乱によって、その思いを最後まで果たすことができないまま、終戦の年に亡くなりました。空襲で破壊された阿倍野学舎の再建が一段落した昭和30年代、祖父の遺志を引き継ぎ、父左藤義詮と私は大谷女子大学の創立を目指して動き出しました。

大学をどこに建設するのか、北は高槻から南は富田林まで候補が挙がるなか、昭和38(1963)年、当時大阪府知事であった左藤義詮が富田林ゆかりの天誅組の記念碑(錦織神社内)に揮毫したことが御縁となり、富田林市に用地を求めることになりました。当時はまだ若かった私も、地元の方々と一緒に、真夏に汗を拭きながら石川の両岸の土地を見て歩きました。その合間に入れていただいたお茶の美味しさは今も鮮明に覚えています。

そして決まった現在の錦織の地は、古代朝廷に錦織物を製作献上したといわれる渡来人の錦織部が居住していたところで、現在も隣接して奈良時代前期の細井廃寺や錦聖遺跡が所在する歴史的な場所です。しかも、東に金剛・葛城の山並みを見渡すことができる景観は素晴らしく、静謐な環境は教育の場・学びの場として相応しく、近鉄滝谷不動駅から徒歩5~7分というアクセスの良さもあり、学舎建設には絶好の場所でした。大学設立に対する地元の沢山の方々のご理解とご協力を得て大谷女子大学は誕生したのです。

あれから50年。時代は変わり、大学を取り巻く環境も大きく変化して校名も大阪大谷大学になりましたが、校祖から受け継がれた教育への思い、人を育むことが未来を作るとする理念は今も引き継がれ、着実に歩み続けています。どんなに変化が激しくても、変わらないものがあります。私たちは一生学び続けられる力を身につけ、社会に貢献できる人の育成に向けて、これからも熱意と創意工夫をもって進んでまいります。

大谷学園 学園長 左藤 恵