教員コラム

学校現場の「多忙化解消」に向けて、大学で何ができるのか

教育学部 教育学科 学校教育専攻 特任教授 藤村裕爾

学校現場の「多忙化解消」が、やっと、話題にのぼるようになってきたが、日本の学校教育は、教員の非人間的な長時間労働の犠牲を前提に成り立っていると言わざるを得ない。多忙化の問題は、第一義的には教育行政の不作為の結果であり、制度的な改善が求められることは言うまでもないが、教員を養成する立場として何ができるのか、悩むところである。

教員採用試験に向けて、今、面接対策指導が佳境に入っている。「なぜ、教員を志望するのか?」、「どんな教員をめざすのか?」との質問に対して、ほとんどの学生が、「これまで出会った教員から受けた指導やその生き方から影響を受け、教職に対するやりがいや魅力を感じ、憧れ、一生の仕事として選ぼうと考えた」と答える。教職をめざす学生の多くは、めざす教員像や教職に対する仕事観が、既に形づくられている。そのめざす教員像は、時間を惜しまず、親身になって指導してくれた理想的な教師であり、自分の受けた影響の大きい分だけ、思い入れは深い。このこと自体、尊いものだと考える。

しかし、一方で、教育現場の実情を十分に知ることもなく、ハードワークを受け入れてしまう素地がこの時点で既に形成されているのではないかと危惧する。ここに、際限のない「働きすぎ」に自らを追い込んでいく、そんな教職に潜む「罠」があるのではないか。さらに、大学の教職課程では、「教職の崇高な使命」、「教職の意義」、「教員像の確立」など、教員はかくあるべきという理念を内在化させる。また、採用試験では人物重視が標榜されており、「求める教員像」としての「情熱」「使命感」「熱中」「愛情」等の資質が求められている。

教育の本質を考えると、もちろん、このこと自体を否定するものではない。しかし、これらのこととともに、教員を養成する立場として、制度の矛盾や教育現場のハードワークの実態に対する認識、自己の働き方を相対化する視点など、自らの働き方をコントロールできる力を、教員をめざす学生に身に付けさせたいと、今だからこそ、痛切に思う。